神戸地方裁判所 昭和59年(ワ)142号 判決 1988年12月14日
原告
上杉綾
右法定代理人親権者母兼原告
上杉純子
右原告ら訴訟代理人弁護士
羽柴修
同
持田穣
被告
神戸市
右代表者市長
宮崎辰雄
右訴訟代理人弁護士
奥村孝
右訴訟復代理人弁護士
中原和之
主文
一 被告は、原告らに対し、各金一一五万円及び内金一〇〇万円に対する昭和五八年九月二六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告らのその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用は、これを二〇分し、その一を被告の負担とし、その余を原告らの負担とする。
四 この判決の第一項は、仮に執行することができる。
事実
第一 申立
(原告ら)
一 被告は、原告上杉綾に対して金三七三四万四六一六円及び内金三五三四万四六一六円に対する昭和五八年九月二六日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を、原告上杉純子に対して金四〇三四万四六一六円及び内金三八三四万四六一六円に対する昭和五八年九月二六日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。
二 訴訟費用は、被告の負担とする。との判決並びに第一項について仮執行の宣言
(被告)
一 原告らの請求を棄却する。
二 訴訟費用は、原告らの負担とする。との判決
第二 主張
(原告ら)
〔請求原因〕
一 当事者
原告上杉純子(以下「原告純子」という。)は、訴外上杉功(以下「亡功」という。)の妻、原告上杉綾(以下「原告綾」という。)は、その長女である。
被告は、神戸市立中央市民病院(以下「中央病院」という。)を開設し、医師を雇用して医療行為に当たらせているものである。
二 亡功の死亡経過
亡功は、昭和五七年四月末か五月初頃から、食欲不振、下痢、全身倦怠感を覚え、体重の減少が目立つようになったので、同年六月三〇日、自宅近くの宮地病院で受診し、空腹時の心窩部痛及び体重が従前の六〇キロから五五キロに減少したことを訴えた。
同病院は、同日、消化管X線検査、尿検査、超音波検査を実施した。その結果、前二者については特に異常は見られなかったが、超音波検査において膵にやや腫脹が見られ、膵炎の疑いがあるとの診断がなされた。
亡功は、その症状がその後も悪化するので、同年八月二一日中央病院内科で受診し、慢性下痢、体重減少を訴えた(奇妙なことに、カルテには、当時亡功が訴えていた心窩部痛、全身倦怠感、食欲不振の記載がない。)。担当の片上医師は、検便、赤沈、検血の各検査をし、八月三〇日に消化器内科で受診するよう指示し、一〇日分の下痢止め薬を処方した。
同月三〇日、亡功は、同病院内科部長代行医長藤堂医師の診察を受け、下痢止め薬七日分の処方を受けた。同年九月六日、同医師は注腸X線透視、上部消化管内視鏡検査を指示し、同月一四日上部消化管内視鏡検査が、同月二九日大腸透視検査が施行された。同医師は、この検査結果から、同年一〇月四日、亡功の症状につき出血性胃炎の所見がある以外は著変なしと判断し、その傷病名を過敏性大腸症候群と診断した。
その後、亡功は、翌昭和五八年六月二〇日まで中央病院に通院して診察、薬の投与を受けた。すなわち、昭和五七年一〇月四日以降、同年一一月一五日、一二月一三日、翌五八年一月一〇日、二月二一日、三月二八日、五月九日、六月二〇日に同医師の診察を受けたほか、昭和五七年一二月一五日から同五八年六月二〇日までの間に七回薬を受けとるため通院している。
右通院の期間中、亡功の症状は何一つ改善されることなく、悪化の一途を辿った。すなわち、食欲不振、下痢は止まらないのみならず、体重の減少はますますひどくなり、昭和五八年初めには二〇キロ近く減少し、背部痛が増加し、同年二月頃から名古屋市にある鍼灸院で灸治療を受けたりした。顔色は血の気を失い、痩せ細り、素人目にもその衰弱は明らかであったのに、その間、藤堂医師は、昭和五七年一二月二七日の臨床化学検査結果に肝機能の異常がないこと、アミラーゼ検査により膵機能検査にも特に異常がないとの判断のもとに漫然と下痢止めを投与し続けたのみであった。亡功は、通勤の際の階段の昇降にさえ苦痛を感じるようになったが、藤堂医師の診断を信じて無理を押して勤務を続けた。
しかるに、昭和五八年七月一一日、亡功は発熱し、近くの梶川医師の診察を受けたところ、同医師は、亡功の症状からみて「内臓になにか重大な病気」があることを疑念し、同月二六日の受診の際、亡功に入院して検査をすることを勧めた。亡功は、同年八月九日、財団法人甲南病院に入院し、同日血液検査、同月一二日に超音波検査、CT等の各種検査を受けた結果、膵臓癌で、しかも膵頭部腫癌閉塞性黄疸をともない、肝臓その他に転移していて、末期症状であることが判明した。
原告純子はこれまでの治療経過に鑑み、右甲南病院の診断がにわかに信じられず、同月一五日、右検査結果に基づき、中央病院で藤堂医師の所見を求めたところ、右診断に誤りがないとのことであった。そこで直ちに中央病院に入院の措置がとられたが、手術を含む根治的治療は不可能との担当医師らの判断で閉塞性黄疸に対して経皮経管トレナージ(体外から針で肝汁を外に流す方法)、偽嚢胞の痛みを和らげるため針を穿刺し、液を抜き取る等の保存的治療が施されただけで、同年九月二五日、亡功は、膵癌により死亡した。
三 被告の責任
1 亡功は昭和五七年八月二一日に中央病院の担当医師を介して被告に対し、前記主訴での診断を求め、病状の解明、治療を依頼し、被告はこれを承諾したので、両者間に診療を目的とする準委任契約が成立した。
前記の死亡経過からすると、亡功は前記宮地病院の診察を受けた当時から膵癌に罹病していたと認められるのに、藤堂医師は、アミラーゼ検査で異常がなかったことから膵癌あるいは膵疾患をまったく疑わず、「過敏性大腸症候群」との診断のもとに一年余り有効な治療をしないまま漫然と下痢止めの治療を続けたのである。
2 膵癌においてはなによりも早期発見が重要であるところ、最近のエレクトロニクス技術の顕著な進歩により各種検査方法が生まれ、簡易な検査の施行によりその早期発見が可能になった。そして、中央病院は、我国有数の総合病院で、その規模、スタッフ、各種施設、診療内容いずれをとっても我国現代医学の最高水準を有していることは自他共に認めるところで、総合診療態勢をとって専門医が協力してチームを組んで高度な最新機器を整えている。
3 膵癌あるいは膵疾患の初期症状として、体重の減少、食欲不振、下痢、疼痛を伴うのが通例とされており、亡功の初診時の症状、特に短期間に体重が九キロも減少していた点からすると、胃、腸の形態的検査で異常がなければ膵疾患を疑うのが常識で、かかる疑いを持って慎重なスクリーニングを行い、鑑別がなされるべきであった。
当時の医学水準からしても、肝機能検査、アミラーゼ検査、血糖検査、また形態的検査として胃腸透視、大腸透視をなし、そして膵癌を疑った場合にはエコー検査、CT検査、逆行性膵胆管造影(ERCP)、血管造影、糖負荷試験、CEA測定などが考えられ、特に、簡易に行える上腹部のエコー検査は当然になされるべきであった。このような検査がなされると、膵癌が見逃されることはなく、初診時に膵癌を疑っておれば、前記の中央病院の規模、設備からしてこれら検査はいずれも可能だったのであるから、その発見の可能性、蓋然性は極めて高かったのである。
なお、中央病院のカルテに、全身倦怠感、食欲不振、宮地病院で訴えていた心窩部痛の記載がないことは、医師の問診が不十分であったことの証左である。
4 亡功の膵癌が早期に発見されておれば、切除術、制癌化学療法、放射線療法が行われたであろう。そのような場合の予後は一般に極めて悪いとされているが、治療成績は着実にあがっており、五年以上の生存、更には治癒の期待さえ報告されている。すなわち、延命が助命に繋がる可能性もあったのである。亡功は、外資系の会社に勤務していたので、より高い助命率を願ってアメリカで治療することもできたのである。
四 原告らの損害
亡功は、昭和一七年二月一九日生まれの死亡当時四一歳で、シグノド株式会社に勤務し、昭和五七年分の給与所得は五九七万二〇〇〇円であった。被告の債務不履行がなければ、向後二六年は就労可能であり、少なくとも五年の延命は可能で、復職も可能であったからこの間の給与は損害として認められるべきである。
亡功も原告らも、中央病院を信頼して受診したにもかかわらず、充分な精密検査を受けることなく一年余り放置され、癌に対する有効な治療もなされないまま死亡したのであり、亡功、原告らの無念は筆舌に尽し難い。
以上の事実を前提にして、原告らの損害額を算定すると、次のとおりとなる。
1 亡功の逸失利益分
各二九三四万四六一六円
前記収入額から生活費として四〇パーセントを控除し、ホフマン式計算法(対応する新ホフマン係数16.379)により中間利息を控除すると金五八六八万九二三二円となるところ、原告らは亡功の相続人であり、その相続分はそれぞれ二分の一であるから、右金額の各二分の一に相当する金二九三四万四六一六円宛の損害賠償請求権をそれぞれ承継取得した。
2 原告らの慰藉料
原告綾 六〇〇万円
原告純子 九〇〇万円
3 弁護士費用 各金二〇〇万円
原告らは、弁護士に本件訴訟の遂行を委任し、弁護士報酬として各金二〇〇万円を支払う旨約した。
五 結論
よって、債務不履行に基づく損害金として、被告に対し、原告純子は金四〇三四万四六一六円及び弁護士費用を除く金三八三四万四六一六円に対する亡功死亡の翌日である昭和五八年九月二六日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金、同綾は金三七三四万四六一六円及び同じく弁護士費用を除く金三五三四万四六一六円に対する右同日から支払済みまで同割合による遅延損害金の支払をそれぞれ求める。
(被告)
〔請求原因に対する答弁〕
一項は認める。
二項は、亡功が昭和五七年八月二一日慢性下痢を主訴として中央病院で受診し、その後翌五八年六月二〇日まで同病院の藤堂医師からほぼ原告らの主張するとおりの検査、投薬を受けたこと、同五八年八月に亡功が膵癌に罹患しており、その末期症状であることが判明して、同月一五日中央病院に入院し、同年九月二五日死亡したことを認め、その余は不知、もしくは争う。三、四項も争う。その詳細は次のとおりである。
〔亡功の治療経過〕
一 亡功は昭和五七年八月二一日慢性下痢を主訴に中央病院で受診したが、その訴えは、「五月頃から一日一ないし三回下痢もしくは軟便をする。最近の五か月で体重が九キロ減少した。腹痛はない。発熱、嘔気、吐血、血便などはない。」ということであった。診断による理学的所見は「皮膚の黄染はなく、全身リンパ節腫大を認めず、胸部呼吸音、心音とも異常はなく、腹部は平坦軟にて圧痛なく、腫瘤を覚知せず、打聴診上も異常なし」とのことであった。
二 同年八月三〇日、亡功は、同病院消化器内科部長藤堂医師の診察を受け、止痢剤の投薬を受けた。同年九月六日、亡功は、藤堂医師に対し内服薬服用後下痢は軽減したと述べた。藤堂医師は、消化器の悪性腫瘍の除外診断のため亡功に注腸X線透視検査(九月二七日施行)と上部消化管内視鏡検査(九月一四日施行)を受けさせたところ、びらん性胃炎の所見以外になんら悪性所見を認めなかったので、同年一〇月四日受診の際、過敏性大腸症候群と診断し、止痢剤、整腸剤に制酸剤を投与して経過観察をすることにした。その後の一二月二七日に施行した血液生化学検査の結果でもなんら異常所見は認められなかった。その間並びに翌年六月二〇日まで、亡功は藤堂医師の診察を受けたが、薬を止めると下痢をするという程度の訴えで、診断時の腹部所見にも圧痛や腫瘤などの異常所見は認められなかった。
〔被告の責任についての反論〕
一 右のとおり、亡功の初診時の主訴は、体重減少と下痢で、疼痛(腹痛、背部痛)は訴えておらず、通院期間中終始、腹痛はなく、黄疸、圧痛、腫瘤触知等の所見は認められなかったし、腰背部痛の訴えもなかった。
そこで、藤堂医師は極めて不定の消化器症状と考え、悪性腫瘍の除外診断をも含めて注腸X線透視と上部消化管内視鏡検査を施行したが、その結果、大腸には器質的な異常は認められず症状は伴わないが非特異的胃炎の内視鏡的所見が得られたのみであったため、過敏性大腸症候群と診断した。なお、便通異常は膵癌に特有な症状ではない。
膵癌の初段階における特有な症状は明確でないうえ、右のごとく、原告が主張している典型的初発症状さえも認められなかったのである(なお、前に宮地病院で膵疾患の疑いを指摘されたとの申出もなかった。)。
その後の血液生化学検査の結果においても、肝機能は正常範囲内で、黄疸の客観的な指標となる血清ビリルビン値も正常値を示し、肝内腫瘍占拠の際しばしばみられる血清アルカリフォスファターゼ(膵頭部癌等を調べる検査)、乳酸脱水素酵素の検査(肝疾患等を調べる検査)、ロイシンアミノペプチターゼなどもいずれも正常値を示し、膵癌に伴って異常値のみられる血清アミラーゼ値や、空腹時血糖値等も正常範囲で、膵癌を疑うべき症状は認められなかった。
亡功が中央病院に通院したのは、昭和五八年六月二〇日までで、同年八月一五日に入院するまでの二か月間は、中央病院としてはまったくの空白期間であった。甲南病院から中央病院に転院してきた時には、亡功に顕性黄疸、発熱、腹痛、腫瘤触知(超音波及びCT検査にて仮性嚢胞と診断)、圧痛があったが、これは、それまで背部浸潤型で、膵頭部や主膵管への浸潤にまでいたらず、潜在的に病巣が進行していたものが、末期に至り腫瘍による総胆管閉塞がおこり、閉塞性黄疸が発生するとともに、胆汁うっ滞による胆管炎が発生し、右のような症状をきたしたものと思われる。
二 このように、消化管検査及び血液生化学検査を施行し、体重減少に関して、悪性腫瘍を否定するため一般的に施行される上部消化管検査に加えて下部消化管検査まで施行した結果、膵疾患を疑う所見は得られなかったのであるから、原告の主張するような諸検査をすべき義務はなかった。
また、原告らは、初診時の問診が不十分だったと主張するようであるが、問診では患者の協力が不可欠であるところ、亡功は医師の問診に対して腹痛を否定するなど同人の協力が得られなかったものである。
ちなみに、中央病院において、昭和五七年当時、腹部超音波検査、CT検査で検出できるのは進行膵癌が中心で、小膵癌を検出できる程の技術は発達していなかったし、またERCPは患者にかなりの苦痛を与え、主膵管に病変が波及して初めて膵癌の所見として抽出できるものであるから、精密検査(二次検査)として施行するが、その際は、殆どすべてが進行膵癌である。
三 膵癌診療の現況について
膵癌の切除率は二〇パーセント前後と低く、しかも切除例も大部分は進行癌であり、手術方法の如何にかかわりなく予後は極めて不良で、最近の診断法の発達により膵癌の早期発見に期待がもたれているにもかかわらず、現時点では、切除率の向上につながっていない。
膵癌に関しては、早期癌の定義は未だなお不明確であり、腫瘍の大きさの最小単位を二センチメートルとしてそれ以下のものを小膵癌と命名し、その発見と根治性を検討しているのが、現状である。
実際に、一九八一年度の日本全国の膵癌登録例の調査報告(国内三〇二施設から寄せられたもの)をみても、小膵癌であった事例は、一一九一例中のわずか2.9パーセントにすぎない。
さらに、この小膵癌の発見のきっかけになったものの大部分が、黄疸の発現という明確な症状を伴ったものであり、これは、小膵癌でありながら、偶々、総胆管を閉塞するような位置に癌があったということを意味しており、特殊な位置にあったために発見されたものである。
次に、このような小膵癌でありながら、多くは、膵外への進展を示しており、中には遠隔転移を示すものもあり、手術後間もなく再発し、死亡するものが大部分であることが多くの文献に示されており、小膵癌すなわち早期膵癌といえるものではない。
このことは、単に膵癌の早期発見が困難であることによるのみならず、膵癌が生物学的に悪性度の高いことや、膵癌の進展様式の特異性にもよるものである。すなわち、症状が発現しにくく、しかも小膵癌の段階ですでに高頻度に膵外進展を伴うこと、膵外への進展様式として、直接浸潤、腹膜播種、リンパ行性・血行性転移のほか、神経周囲浸襲の形での経路があって、これが膵後方組織や膵周囲血管への癌進展を促す一つの要素となっていること、膵外進展が、単にリンパ節転移の範囲を超えて拡がる傾向があり、膵切除やリンパ節郭清後にも癌遺残を来しやすいこと、早期に膵近傍のみならず広範にリンパ節転移を来しやすいことなどの理由による。
膵癌手術後の病理学的検討をみても、臨床医が治療切除を行つたと称しているものの多くに、実際には取りのこしのあることが示されている。特に神経周囲浸襲は、ほとんどの膵癌で認められ、この様な膵癌特有の進展の仕方は、恐るべき拡がり方のルートであるとされている。
亡功の中央病院における初診時の主訴が振返って見て、膵癌の症状であり、加えて原告の主張するように背部痛も伴っていた(但し、通院時、亡功からの訴えはなかった。)とすれば、当初より既に広範な膵外進展があったことは間違いなく、また、手術不能であった可能性が極めて高いことが文献上からも推察される(一年後の症状発現時に、広範な肝転移などを伴っていた事実も併せ考えると、初診時すでにstage3以上の進行癌であったものと推認される。)。小膵癌でさえ、その大部分は手術後の余命が数か月ないし一年以内であるから、亡功の場合も、中央病院での初診の頃に手術ないし手術以外の方法を加えても、延命効果はなかったものと考えるのが相当である。
第三 証拠<省略>
理由
一請求原因一項の亡功と原告らの身分関係、被告が中央病院を開設して医師をして医療行為に当たらせていることは、当事者間に争いがない。
二亡功が昭和五七年八月二一日慢性下痢を主訴として中央病院で受診し、その後翌五八年六月二〇日までの間、同病院の藤堂医師からほぼ原告ら主張のとおりの検査、投薬を受けたことは、当事者間に争いがなく、この事実からすると、亡功と被告との間に診療契約が締結されたものというべきであるから、被告は、中央病院の担当医師をして、亡功の症状について当時の医療水準に応じた医学的解明と解明しえた限りでのそれに対応する治療をなすべき義務を負っていたことになる。
三亡功が昭和五八年八月上旬、末期膵癌に罹患していることが判明して、中央病院に入院したが、同年九月二五日死亡したことは当事者間に争いがなく、その余の当事者間に争いのない事実に<証拠>によれば、亡功の死亡に至る経過について、次の事実が認められる。
1 昭和五七年八月二一日、中央病院で片上医師の診察を受けた(初診)。下痢、体重減少(四月には六〇キロあったのが五一キロになった。)を主訴とする。「五月ころからクーラーにあたると水様便になり、一日三、四回毎日のようにあった。六月末に近くの宮地病院で胃の透視を受けたが、特変はないとのことであった。発熱、血便、嘔気、嘔吐はない。腹痛は特にないが、食欲がもう一つよくない」と述べた。皮膚、粘膜に黄疸、リンパ腺の腫脹はなかった。検便、血沈、検血の検査結果も異常がなかった。片上医師は下痢止め一〇日分を渡して、八月三〇日の来院を指示した。
2 同月三〇日、藤堂医師の診察を受け、下痢止めの処方を受けた。同医師は、前回の片上医師の所見を確認したうえ、腹部の触診をしたが、異常な圧痛等はなかった。
3 同年九月六日、藤堂医師の診察を受け、「下痢はある程度よくなったが、軟便が続く」と述べ、同医師は、上部消化管の内視鏡検査、注腸X線透視を指示した。
4 同月一四日、上部消化管内視鏡検査により、出血性胃炎があることが判明した。
5 同月二七日、注腸X線透視検査を受けたが、大腸に関して著変なしと診断された。
6 同年一〇月四日、藤堂医師の診察を受けた。同医師は、過敏性大腸症候群と診断し、亡功にその旨を告げた。以後、制酸剤とともに下痢止めの投与が続けられることになる。
7 同年一一月一五日、藤堂医師の診察を受け、「冷たいものを食べると下痢する」と述べた。
8 同年一二月一三日、藤堂医師の診察を受け、「夕方になると下痢をする」と述べた。
9 同月二七日、血液生化学検査の結果、肝機能の異常はなく、黄疸もなく、膵癌に伴うアミラーゼ値等も正常であった。
10 昭和五八年一月一〇日、藤堂医師の診察を受け、「薬をやめると下痢をする」と述べた。
11 同年二月二一日、藤堂医師の診察を受け、「下痢がときどきある」と述べた。
12 同年三月二八日、藤堂医師の診察を受け、「下痢が止まらない」と述べた。
13 同年五月九日、藤堂医師の診察を受け、「便が軟かい」と述べた。
14 同年六月二〇日、藤堂医師の診察を受け、「食欲はある。疲れやすい」と述べた。この日が通院の最終日であるところ、亡功は、初診以来終始、腹、背部痛を訴えなかった。
15 同年七月一一日、三八度の熱を発し、梶川病院で受診した。
16 同月二六日、梶川病院で診察を受けた。
17 同年八月九日、甲南病院に入院した。
18 同月一二日、甲南病院でCTスキャン等の検査をした結果、膵臓癌末期と判明した。
19 同月一五日、中央病院に転院した。
20 同年九月二五日、膵臓癌で死亡した。
四<証拠>によると、亡功は、昭和五七年四、五月頃から下痢、全身倦怠感、背部痛等があり、中央病院受診前の同年六月三〇日、近くの宮地病院で受診し、空腹時の心窩部痛、下痢、体重の減少を訴え、消化管X線検査、上腹部エコー検査を受けたこと、同病院では、亡功の傷病名を胃潰瘍疑い、胃炎、肝障害疑いとしたが、右エコー検査により膵炎の疑いもあると診断したことが認められるところ、この事実と鑑定の結果によれば、遅くとも右宮地病院で受診した昭和五七年六月三〇日には、亡功は膵癌に罹病していたと推定するのが相当である。そうすると、その後に中央病院でなされた過敏性大腸症候群との診断は、少なくとも結果的には誤診であったというほかない。
五そこで、中央病院がそのように診断したことについて、担当医師らに診療義務違反ないし過失があったか否かについて考えるに<証拠>によると、膵癌の初期症状としては、腹痛、背部痛、黄疸、食欲不振、体重減少、腹部膨満感等が頻度的に多いとされていること、膵疾患の診断技術は、昭和五七年頃では、一般的には血清アミラーゼでスクリーニングし、アミラーゼ値が正常である場合は、それ以上の検査を行わないことが多いのが実状であったが、膵癌症状における酵素学的研究では、膵癌におけるアミラーゼの陽性率は三〇パーセント程度であり、膵癌を疑った場合は形態的検査が必要であるとの専門家の報告が数多くあること、膵癌に対する早期診断は、近年、超音波検査法、CT検査法などの普及により急速に進歩し、昭和五五年の日本消化器病学会の「膵癌の早期診断」のシンポジウムでとりあげられたことがあること、中央病院は、地域高度医療機関としての役割を果たすべく設立され、臓器別、疾患別に各科の専門医が診療チームを組んで診療にあたる総合診療体制をとっており、また、検査や治療のための高度な最新機器を設置して、診療部門の充実を図っていることを誇示し、亡功の受診当時、超音波検査機も三台設置されていて、診療に使用されていたこと、超音波検査は患者に与える苦痛がほとんどなく。副作用もないことが認められる。
そうすると、前記三に認定したとおり、亡功は、中央病院受診の当初から、下痢、顕著な体重の減少(四か月に九キロ減)、食欲不振を訴え、そして、その後に行われた上部消化管内視鏡検査、注腸X線透視検査で出血性胃炎が認めれられたほか、胃、大腸に著変なしとされたのであるから、亡功が腹痛、背部痛を訴えなかったとしても、胆嚢、胆道、膵臓等の腹部臓器の異変を疑うのが当然であり、そして右認定の事実によれば、中央病院としては、少なくとも超音波検査を実施することができたし、また実施すべきであったということができる。にもかかわらず、担当医師が超音波検査をしないまま、亡功の症状を過敏性大腸症候群と診断したのは、その後に血液生化学検査を実施しているとしても、前記診療契約の内容としての当時の医療水準に応じた医学的解明をする義務を怠ったというべきである。
鑑定の結果によれば、小膵癌(腫瘍直径二センチメートル以下のもの)の発見は難しく、また、超音波検査は術者の技術に診断の結果が左右され、亡功は膵体尾部の癌であったと推察されるところ、超音波検査では尾部の病変は摘出に困難を伴うことが多いことが認められるけれども、発見の可能性が絶無であったとはいえない以上、病像解明のために考えうる手段をとることが期待されているのであるから、右の職務懈怠を否定することはできず、被告は、債務不履行の責任を免れることができない。
六鑑定の結果によれば、膵癌が発見された場合、切除可能であれば、膵全摘術、膵頭・十二指腸切除術、膵体尾部切除術などが行われ、更に切除術に加えて、あるいは切除不能の場合には、膵癌化学療法、放射線療法などが行われることになるが、膵癌では切除可能な時期に既にリンパ節転移、脈管侵襲、膵被膜浸潤が高頻度に認められるため、切除率は低く(日本膵臓病研究会膵癌登録小委員会による一九八一年から一九八四年の四年間の全国統計では、膵癌四一四七例中切除率は約二七パーセントであったと報告されている。)、しかも大多数の切除例で根治的手術がなされていないこと、その予後も極めて悪いこと(右小委員会による一九八一年から一九八三年の三年間の全国統計によれば、切除例の一年生存率は四七パーセント、二年生存率二五パーセント、三年生存率一一パーセント、姑息手術ではそれぞれ一四パーセント、三パーセント、二パーセントである。なお、切除不能の場合の六か月生存率が照射例三五パーセント、化学療法例二一パーセント、非照射、非化学療法例八パーセントという報告がある。)が認められる。これらのことと、先に四で説示したとおり、亡功が昭和五七年六月三〇日の時点では既に膵癌に罹患していたと思われることを併せ考えると、中央病院において過敏性大腸症候群と診断された当時に超音波検査がなされて、その結果、膵癌が発見されたとしても、亡功の延命の可能性は極めて低かったというべきである。
そうすると、先に五で述べた被告の債務不履行と亡功の死亡の結果との間に因果関係を認めることは相当でないから、この因果関係があることを前提とする逸失利益、慰藉料の請求は、失当である。
七しかしながら、右に認定したところによれば、亡功は、延命の可能性が全くなかったというわけでもないのに、九か月近く下痢止めの投薬を受けたのみで、膵癌に対する治療は何ら受けることなく推移したのであるから、この点は、地域高度医療機関としての中央病院を信頼して受診した亡功の期待を裏切ったものとして精神的損害賠償の対象になるとしなければならない。そして、以上述べてきた事実のほか諸般の事実を総合勘案して、亡功の被った精神的苦痛を金銭に評価すれば、金二〇〇万円と認めるのが相当であるところ、原告らは、亡功の相続人としてその各二分の一を承継したことになる。なお、本訴は、亡功と被告との間の診療契約上の責任を求めるものであるから、契約当事者でない原告ら固有の慰藉料請求は認めることができない。
八本件事案の性質、審理の経過、請求認容額等を考慮すると、原告らは、被告に対し、本訴の提起、追行に要した弁護士費用として各金一五万円の賠償を請求しうるとするのが相当である。
九よって、本訴請求は、各原告につき慰藉料一〇〇万円、弁護士費用一五万円及び慰藉料に対する亡功死亡の翌日である昭和五八年九月二六日から支払済みまでの民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるので、この限度で認容し、その余の請求を棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条本文、九三条、仮執行の宣言につき同法一九六条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官林泰民 裁判官岡部崇明 裁判官植野聡)